無知から始まる好奇心

暇人ヒマジンの気まぐれアウトプット

情報中毒

前回の投稿からだいぶ日が経ってしまった。ヒマジンであろうとしていた自分に対して、一年間何をしていたのかと叱責したくなるが、兎に角リハビリも兼ねて毎日何かを綴っていこう—

心が落ち着かない。休日だというのにあくせく動く。

折角の休みなのだから、何か特別なことをしなくてはという義務感に駆られてしまう。これは心に余裕がないからなのだろうか。

いいや、そんなことはない。余裕は少しずつだが、生まれてきている。新しい土地での生活にも徐々に慣れてきたし、日常生活で空を見上げなくなったことを思えば、それはわかる。しかし、空を見上げるというのは、物思いに耽るということでもあったか。何気ない場面において、細かな気づきがないといえば余裕はないのかもしれない。

情報にのまれてしまっている人というのは、その時代に適応できていない証拠だ。私もその一人だ。いつからか多すぎる選択肢に悩み、絶望し、あきらめた。何もかもが中途半端になり、やる気を失くした。しかし、変わっていくしかない。変わるとは何か。以前の自分から成長していくことだ。昨日の自分よりも一つでもいいからできることを増やしていく。そうやって、不器用な自分に何かを+していくことが必要なのかもしれない。

—いまの自分はどこを歩いているのか全く見当もつかないけれど、無駄なことをしているわけはないと言い聞かせて、昨日の自分よりも+1の自分を創っていく—

映画『凶悪』を観る

どうも、暇人ヒマジンだ。

若者はリアルに対しての感受性が薄くなっているように思われる。ネットによってリアルタイムに情報が得られるようになった。死に対する情報も入る。知識として既知の状態には各々がある。しかし実際には経験はしていない。よって、リアルさに欠ける感情がどこかにある。そのため、当事者意識が無いケースもある。

本作品を観て思うのが、

「人間関係の真実を明らかにするよりも、自然の摂理(天道)を解明したほうがよっぽど世のためになる」

「大きなこと、世界平和であったり、国家のためであったりなど、大きな理想、真実を正義として突きつめる主体は男性で描かれることが多い。しかし、妻(女性)は色々と正義を口にするが、結局は目の前にある幸福を求めている」

「人の死に対する凶悪さは、常に二人称、三人称へと移り変わる容易さ、不安定さを含んでいるということ。よって、第三者も急に凶悪となり得る要素が大いにある」

本作品は事実を基にしたフィクションである。演じるのは、リリーフランキーピエール瀧。映像を見ても分かるようにまさしく狂人、凶悪を演じている。

最後のシーンは非常に印象的だ。つまり、誰もが、凶悪になり得る要素を持っているということ。

アメリカンスナイパー

どうも、暇人ヒマジンだ。

丁度時間もあったので、DVDを借りてきた。

クリント・イーストウッド監督の35品目の作品「アメリカンスナイパー」だ。

実話をもとにした映画であり、物議を醸した映画でもある。クリスカイルという米国史上最強の狙撃手の物語である。物語というとあれだが、戦争ドラマでもありヒューマンドラマでもあり、見方によっては色々とあると思う。映画だから解釈はどうあっても良い。戦争映画は私は嫌いではない。戦争はもちろん嫌いだ。絶対に起きてほしくはない。映画の世界とはいえ、中々にハリウッドが生み出す世界は恐ろしさを見る者に感じさせる。監督の影響もあって、本作品はクリスカイルというある種の英雄を如実に生々しく映し出している。この映画を見ていると、果たして何が正しいのかが怪しくなってくる。モロッコを撮影の舞台に、イラクの戦場をリアルに映し出す。彼の妻タヤは「戦争が影響を与えないものはない」という。クリスは4度イラク戦争に駆り出し、実に1000日程戦地に滞在し、殺した数は160人超。当然ながら、帰国後は心ここにあらずという状態でPTSDを患う。闘病との最中、味方を国家を救うために、負傷した軍人たちとコミュニケーションを取る中で次第に元の自分を取り戻していく。だが、神は彼を見放すのだろうか。それとも代償だろうか。軍人仲間に銃殺され、彼の生涯は若くして幕を閉じるのだ…。

非常に人間味のある作品である。人を殺して人間味のあるとはいかがなものかという見方もあるが、どこか温かみと戦争やなぜ生きるのかという問いなどに対して、様々に思考を巡らすのである。これほどまでに注目されたスナイパーはいない。寡黙な彼はある種の英雄として存在した。日本人としてはどう見るだろうか。その点、各々思うところがあるだろう。

この作品は、ただの戦争映画ではない。心を揺すぶられる。見て損は無い。

初投稿 つぶやき

どうも、暇人ヒマジンだ。

初投稿にあたり、簡単な文章で済ませよう。

家にいると無性に落ち着かなくなることはないだろうか。

正に今その状態にあり、好きなことが出来る時間はあるのだが、外に出たくてたまらないのだ。動きたいとむしゃくしゃしている。

しかし、答えは出ていて、結局外に出ても無駄な時間を費やして一体俺は何をやっていたのだと悲観して帰ってくる始末である。家にいても勉強というのは出来る。いくらでも手段はある。勿論情報の取捨選択は必須課題だが、多くの情報に触れることで必ず矛盾点が見つかる。そこでさらに掘り下げて疑問を解消していけば良い。そんなことを思うと外に出ることも時間の無駄なように思えてくる。

とは言え、人に会ったり、景色を見たりして刺激を受ける必要もある。脳は安定を求め、変化を好まないが、この怠惰な自分の司令塔をどうにかして満足させることも必要だ。よって、特に用が無い場合でも外に出る機会があっても良い。

まあ、暇人のつぶやきだ。内容もまったく大したものではない。

ということで、つぶやきも併せて今後更新していく。

振り返ってみてくだらない内容だったら改変もする。